→Aという余韻=死
死とは死のある場から何者かが退いた状態と解釈できないだろうか?何が言いたいか?
AがAにある。ある存在がその場に存在している。次にAが別の場に移るとすればAの流れはは×→Aと変換できる。無に帰すことではない。Aの死は足跡×を残すがこれはAの死と無関係ではない。あっちの方に逝くのだ!なぜなら旅立ちというではないか。×はたしかに死である。だが×には余韻がある。Aがそこからいなくなったという名残に化ける。余韻を記号で→Aと表す。これが死という名を与えられ残滓となった×である。だがここに新たにBが入れ替わるなら×→AからB→×→Aとなる。これは感覚的に理解できる。このように考えると死はそこから本来あるべきものが本来あるべき場から立ち退いた物語ということができないだろうか。死は喪失であるが、喪失された場に新たな生が埋め込まれるのが自然の営みであって、この無限の循環を歴史と呼んでもいいかも知れない。喪失はそれ自体が新しい次の喪失になるべき運命の存在を必死に探し求めているかのようだ。些か前のめり気味な話ではあるが…
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