ドストエフスキーの多声性
ドストエフスキー小説のポリフォニーについて。小説の中の登場人物たちは独立した個として自由に振る舞う。巷の小説がモノフォニーであるのに対してドストエフスキーの作品はポリフォニーとして構築されている。独立した人格がいくつも登場して物語が進行する。作品と作者の関係はどうのようになっているのか。作品を書かないドストエフスキーは考えられない。書くからこそドストエフスキーになれる。執筆しているとき真にドストエフスキーなのであり執筆から離れるとドストエフスキーではなくなる。妙な言い方をすれば執筆しているときのドストエフスキーの存在が大半を占め執筆をしていないドストエフスキーの存在は小さい。登場人物は作者と距離をおき独立した行動をするので、作者であるドストエフスキーとの関係は希薄である。小説全体を制御しようとする努力はポリフォニーという多声性の世界ではなかなか難しい。コントロールしようにも人物の独立性が強固であるかぎり作者の意向のままにはならない。登場人物が勝手に暴走することだってある。作者自身の人格とは別個の人格が小説の中で活躍する。一般に人間は、ひとり個人として独立しているようにみえる。しかし本質はポリフォニーにあるのではないか。物理的にはひとりと見做されるけれども、心は多数の人格が調和して恰も一個の人格を形成しているかのようだ。ドストエフスキーの苦悩の根源にあるものは、この人格の多重性にあるのではないかと想像する。心の奥底では多数の独立した人格同士がせめぎ合っている。多重人格とはいわないが、これと類似した気質を誰もが持っている。自我の統合作用によりかろうじて人格の安定が保たれているが、何らかのキッカケに誘発されれば人格の均衡が崩れるときがあるかもしれない。その瞬間に於いても自我の力で統合しようとするならば、苦痛と苦悩は避けられない。人は単一ではなく多であると考えた方が諸々の事象がうまく説明できると思うがどうか。
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