洩れだす意味の了解不可能
概念の了解、または意味の理解について考える。了解するとは概念のカタチらしきものを直感的に把握できたから。それは不動なるもの把握である。心に親近感が生じ、これまでの思考との距離が縮まった結果である。鍵穴に鍵がうまく接続できたようなもの。秩序や法則の認識に成功したから眼の前に新しい視界が開けたのである。ここで認識の前段階の議論は省略する。意識に表出された概念は何らかのカタチかイメージを有する。だが、ここでカタチの性質について疑問がある。無限に広がった、あるいはカタチのはっきりしない、または発散していてカタチが漏れだしてしまうような概念の了解は可能なのだろうか?直感的に現出されるイデア的な概念だけが概念の全てであるのか?曖昧とか漠然さに価値はないのか?具体的なイメージで説明を試みてみよう。イデア的な観念は世界の中にあって閉じている。口が閉じられた袋があってその中にイデア的観念が幽閉されている感じだ。もしこの袋の口が世界に向かって開いていたらどうだろう。袋の中にあったカタチの統一性が崩れて了解される筈の意味が世界に漏れだしてしまうから、認識は不可能になるのではないだろうか。だから認識の前提にあるのは捉えどころのない気体のようなものではなくて固体のようであらなければいけない。意味を告げるときにその意味自体が口の開いた袋に入ってあるならば法則も秩序のカタチも形式から逃避して定まらないので意味の伝達は不可能になるだろう。散乱していている意味をどう捉えて説明できるというのか。世界に発散された意味はカタチになり損ね、理解もそのまま流されてしまう。漂流する概念は永久に人間の知の領域に入ることは許されない。知性は制限内のあるあらかじめ収束されている概念のみを知る。もっとも知性の限界は周知のことと思われるが、未だ知られずに眠っている価値ある意味があるという可能性について注意しておき、現代の知識のみに偏向しすぎる姿勢を反省してみるべきであろう。どうも私は未知の世界の巨大さに異常なまでに魅了されているようだが…
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