知っているつもりの言語活動

知っているつもりで、全然知られていないものは数え切れないが、その中でも特に注意すべき未知なるものがある。これは分かっているつもりで、言葉として一般に流布されているが、その実体は誰も知らない。私(人間)と心の二つである。「私は云々…」というが、人間すら十分に分かっていないのだから、人間である私という主語は意味不明なものである。どうして私という言葉を使い互いに意味の了解をしているのだか、これまた不明であるが、一応の理解が営まれているのは不思議である。「心が云々…」というのもまったく同様。心の構造や全体像あるいは存在そのものを正確に言い当てることはできていない。つまり「心が…」というときに主語の心の実体は全くの未知であって謎を指示しているに過ぎない。言葉で意味が共有できるほうがおかしなことのように思える。そもそも「私」とか「心」を用いて言語活動をするときに、喋る本人も、言葉から表現を受け取る相手側にとっても何を表現しているのか全然わからないはずなのだ。なぜならX(エックス)という名の正体不明かつ存在の不明確な言葉で話すのだから。知っているつもりの言語活動がなされているのだが、あくまでも知らない言語活動に意味をもたせているという現象のみが明るみになっているように見える。確実なことは知られていないものを知っているとの前提に立っているということ!

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