日本と日本語と主体性のなさという特性
「灯台下暗し」という言葉がある。日本が目指すべき方向は遠くにあるのではなく、身近なところにあるのではないか。日本は稀にみる独特な国である。まず日本語は世界でも日本だけにしかない。外からの輸入品である科学や外国語などはもちろん不可避であり有用であるのは当然認めるものの、日本人がそれらを運用するのであり、根幹は日本語にある。大胆な仮説として日本語こそが日本人たらしめているのではないかと想像する。日本語の音声と思考は結びついており分離することはない。勤勉さや繊細な情緒など、日本的なるもののルーツはもしかすると日本語にあるかも知れない。ドイツの哲学と音楽は厳格で論理的な性質をもつドイツ語に由来しているものと考えられるし、イタリア語は歌うようで生の喜びに満ち溢れオペラにぴったりだ。人生を楽しむ言葉と言えるだろう。フランス語には色気がある。まるで香水の香りのする言葉みたいだ。アメリカの楽観性や開放的で自由な、しかし少々粗雑に見えなくもない大胆な性格は、やはりその言語に拠るところが大きいのではないか。それぞれの言語の調子と性質が、それを駆使する者の思考に影響を与え、さらに制約を受ける。日本の場合は特に大陸から離れているので、日本語という言語の独立性は強固である。グローバル化に流されてはいるが、敢えて日本語が日本人の稀有な特性に大いに寄与していると考えている。中国語をアレンジして外国語からも摂取された個性的な言語であり、各方面から吸収して独自な文化を育てる技術に長けているのも日本人の特性である。日本語と言っても流動的で、他のよいところを柔軟に易々と吸収してしまうのが日本人の基礎になっている。日本語を固辞するのではなく、主体が曖昧で希薄であるから(という意味は主張がないということだが)これが素直に他者を受容して日本的にし、日本という国を維持している。主体性のなさは悪いことではない。なぜならこのようにして雑多な文化を吸収してこられたのであるから。
0コメント