権威に対する批判の問題

一般に、国民が権力に対して批判する場合には、比較的わかりやすく理解のおよぶ範囲に限ってのみ批判する。複雑すぎて分からないような権威の悪事があるとしても、何がどう悪いのかという根本的なことが理解できなくては批判しようがないからだ。率直に言い換えるならば、批判の容易なものだけしか批判できない。批判する対象内容の理解が容易という意味である。反論は無論あるだろうが…。だがこれを考慮すると、権威は批判を黙認しているであろうことが予測できる。黙認できない批判は潰されるであろう。最も肝心なもので批判に値する事柄は、国民の視界に入らない仕組みになっているに違いない。視界に入らないとは、問題が批判しにくい形式に巧妙に工作されている可能性があるということ。いまはインターネットによって、あらゆる情報が簡単に暴露しやすく拡散もするのは事実である。しかし未だに権威の固陋さも存在している。現在(2019.11月)の香港情勢に象徴されるように。権威の欲する国民とは、勤勉に働く無知な労働者であることだ。疑ったり余計なことを考えずに、ただ生産性を上げるために働く者は権威の理想とするところである。疑問を持つためには、いったん停まって考える時間がなくてはならない。批判の源は疑問の提示から始まるが、源の源は教育ということになる。権威が想定内の批判をしても意味がない。国民はその水準に応じた批判しかできないのが現実で、また限界でもある。複雑に絡まったよう悪事があるとしても、これに明確な問題や焦点は与えられないから(問題化されないから)批判しようにも批判不可能なのである。また批判には、賛同者が一定以上いなくては力にならない。賛同者が増えるためには、批判内容の理解の共有が不可欠であるが、たとえ単純なことが理解できても複雑なカラクリに隠蔽された、高度な理解力を要する問題についての批判的な共有はなかなか拡散しないのではないか。唯一の解決方法は国民の知的水準を高めることにある。あくまでも国民全体の平均的な知的水準である!

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