忌み嫌われる「狡猾さ」。その有用性

あまり公には言われないことであるが、また推奨すべきではないことであるのは明らかなもので、生きるうえで大切な要素がある。褒められるべき模範は頻繁に取り上げられるのだが、一般の了解から外れることは真理であっても、隠匿される場合が多い。いったい何を言おうとしているのか。ある種の狡猾さについてである。普通の通念からすれば、狡猾さは毛嫌いされるだろうし、自分とてそんな性質のもつ人を好きになることはない。しかし、よく考えてみよう。物事には表と裏がある。表ばかりが有用とは言えないし、それは寧ろ偽善ではないのか。善良な市民は権力者や富豪を忌み嫌う傾向がある。善良さが批判されるのは稀である。もしある種の「ずるさ」というものが健康にとって欠かせないものであることが明白になったとして、それを国を挙げて推奨することはあり得ないだろう。不条理が真理であることを認めるわけにはいかないから。大胆な精神力や良心が咎める行為を躊躇わないとか、一見無神経にみえる実行が大きな実りをもたらすのはよくある話である。公教育がまさか悪に近似した性質である狡猾さを教えるはずもない。現実はどうであるか。賢さと狡猾さをもつ図々しい輩の方がうまく適応しているではないか。確かに善良な人はいい人と言われて賛美されている。思考を強く前進させるならば、現実に適応するには、賢さに似た「ずるさ」という要素が批判を受けながらも有効に機能している事実に気付かざるを得ない。「ずるい」のは悪いことと認知されているし、自分とて「狡猾に生きよ」と言われるならば意に反すると断言する。求めるものが狡猾を乗り越えなければ得られないとするなら人はどうするだろうか。現実がこうゆう風にみえるといっているだけで、つまり真実はちょっとずれているのではないかと疑っているだけで別に他意はない。ただ賢さと「ずるさ」の距離は限りなくゼロに近いと想像する。

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