治療という文化

フロイトを読んでいて面白いと思うのは、無意識や症状や夢といった心理的現象が、昼の意識的な思考のように振る舞うという事実である。たとえば症状は、本人にその意味が理解されないでいる。しかし分析の過程で隠された意味について知ると、症状は消滅する。意識上に格上げされた知識が症状を消すというのは、あたかも症状そのものに意味があり、その意味をもった症状が独立した思考を行なっているような印象を与える。症状が「私の存在意義を考えて!」と主張するから症状の仮面をつけて主人を苦しめていたが、一転して隠れた意味が明確に意識されると症状と入れ替わるように目立たなくなる。まるで「もう私は知られたから役目は終わった」とでも言い残すかのように消えていく。こうして新しく知識となった意味と、困った症状が綺麗に交換される。困った症状とは、抑圧されていた記憶の仮の姿であるが、この記憶の意味を理解するのは容易なことではない。寧ろ苦痛ですらある。抑圧されるべき相当の理由があるから抑圧されているのであり、分析による意味の理解には高度な知性が必要となる。記憶は激しい抵抗をして主人の理解の邪魔をする。この凄まじさこそ無意識的な思考の本性のように見える。一方で意識にとっては、まったく容認できないことであり「消してしまいたい」「そんなのは嘘に決まっている」「絶対に認めない」と信じているので、それが事実であると認めるには、跳躍ともいえる知的転覆をもってして乗り越えなければならない。不合理な症状を消すためにメスではなく知的作業、特に言語活動によって行われるというのは素晴らしい。現代では優雅すぎるという批判もあるかも知れないが。知性の力を借り症状の意味を表舞台に明るみにする努力によって、苦痛であった症状を消滅させるこの一連の過程は、治療というよりは文化とはいえないだろうか。


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