酩酊。あるいは夜の愉悦

みえる体系がある。みえない体系がある。みえない体系は無数に存在する。しかもこれらの体系たちは、ひとつの場にとどまっているどころか常に動いている。事象は体系のなかに属するが、その体系のみにだけ属する。体系に矛盾しないからこそ事象は落ちつく場に至る。問題は未知の体系や隠された体系の存在がある(確信的予言!)ということ。既存の体系に当てはまるならば容易なことであるが、このようなものの方が少ないであろう。だから体系に属さない事象(理解の場を失っている対象)がうろうろして不可解なものとして映る。事象ではなく人間の場合は「あの人は解せない」という反応になる。これらはあたかも共通認識の路線から外れているかのようである。ひとつの体系に熟知していれば、この体系に矛盾するものは排除の対象になる。しかし、それが別の体系の傘下にあるかも知れない。つまりあらゆる事象は収まるべき体系をもっているのに、肝心な体系そのものが知られずにいるという状況の場合が多数であるだろう。体系とは大きな網のようなもので、網そのものは全体としてひとつであってまとまっており、崩れたり分散したりしない。この体系には、このような特色があるが、別の体系には違った特色があるというように、色彩も格好もさまざまな無数の体系たちの集合に我々は囲まれて生きている。ただ、体系が流動的なのは理解を複雑にする。時間の経過という必然的な要請である。体系が動くという事態が厄介ならば、ひとつの体系が死に、新たな体系が誕生したと考えることもできる。なぜ体系について執拗に語るのかというと、体系こそが共通認識の場であるから。理解の発祥の場所といってもいい。だって勝手な人が勝手な場で勝手なことを語るとしても了解は難しく、基準となる共通する領域に立ち止まって、そこから理解に漕ぎつけなくてはならないから。いま思いついたのだが、これは2人以上の話であるということ。1人で完結すると理解に意味がなくなる!

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