2020年から「一歩」
2020年1月現在。改めて基本を考える。何について?理想的な人物像について。即興的にやるつもりだから、これを契機に思考の種が芽吹けばいいくらいに考えて、書くという実験を試みよう。そもそものきっかけは時代の変化の急なこと、世界的に回転の速度があがり摩擦熱が立ち昇る状態にあること、日本という国家の体質が変わりつつあるように見えること等、環境の劇的な変貌を感じざるを得ないから。国家はこれまでの国家という概念では説明し難くなっているし、個人の生活も考え方も大きく変わってきている。技術の進歩はそれに追いつかず、いちいち気にしていたら身がもたないくらいだ。日々の更新に勤しんだとしても追いつくだけが精一杯ならほとんど意味がない。本質的な前進ではない。同意されるかどうかは別にして、事実このような環境変化にある世界に生きている我々はどのような意識をもって生きればいいのだろうか?激動であり世界的に不安定な政情にある現実を素直に認めることから生き方の基本を考えたいが、個人の置かれた状況はまちまちなので一般化はもちろん不可能である。それでもほんの一部でもいいから知恵の共有可能なものがあれば一般化したいと願う。個人的な体験があった。それは自由に思索するという生活環境(約20年)に恵まれた結果、自然とユダヤ人の思考と行動や生活習慣の方に近づいていったのだった。不思議なことに、こちらからユダヤ的なるものに接近したのではなく、ユダヤ的なるものの方から近づいてきたというのが率直な感想である。だから当然受動的な体験ということになる。なにか強烈な欠落感に駆られていたとの事情もあった。いつの間にかユダヤ的な思考と行動に急速に魅了されていく。冗長になってしまったが、この個人的な体験が冒頭の実験的思考のテーマのヒントになるのではないかとふと思ったからあえて書く。安住の地がない。常に周囲からの不条理な非難に抗しなければならない宿命にある。いつどこですべての全財産を没収され奪われるかわからない。限られた制約のなかで生きることを強いられる。ユダヤ人の長い歴史は苦難の連続であったから、まずどんな状況下にあっても生き抜くことが最優先される。運命としての苦難の必然のなかにあって、彼らが使った道具はまさに知恵である。知恵の本質は未知であるが、ユダヤの民はこの知恵と私たちが称するものを最大限に活用して生き延びている。古い話だと一蹴しないで欲しい。将来に不確定要素が多く、どうなるか予測できない2020年現在の世界情勢は、ユダヤ人の置かれた環境と重なるところがある。思考の次元が違い、高等な知恵を民族として共有しているのではないか。間違っているかもしれないが。ちなみにユダヤ的思考には特有の匂いがあって、自身この匂いに敏感になったことがこれからどう発展してゆくのか興味がある。個人的な体験の次のステージとして自己の理想的な人物像の構築に関係してくるだろう。心の扉は常に開放されている。それは偏見に曇らされずに新しいものを受容できる準備が整っているということを意味している。意図的かつ意識的に!さらに、世の中の非常識領域と常識領域の重なるところに注目している。
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