監視社会と信用スコア
まずは客観的な事実から。監視社会であるということで、至るところに監視カメラがあるのを確かめて欲しい。これは氷山の一角であって、個人データでさえも見方を変えるなら監視されていると言ってもいいだろう。「信用スコア」の真実の姿は「人間偏差値」である。外では監視カメラが、内ではネット経由で、個人を24時間追跡する。途方もない量の個人データが集積されAIによって分析される。個人データにはおのおの評価がつけられる。あたかも企業の格付のように分類され一定の評価を受ける。AAAの人もいればC以下の人もいる。これらは自然の流れであり何の疑問もない。なぜなら「それができるのなら、当然やるだろう」からである。つまり人間の性である。分析して分類する。それから整理して評価(真偽は別にして)を加えるのは容易なこと。しかもAIが自動的におこなうのだから。ここで膨大な分析過程は、いったいどの方向に進むのかというと、より緻密で詳細かつ厳密な方へと考えるのが妥当。さらに現在の在り方から将来の予測に方にシフトしていく。例えば人間偏差値(仮名)が最優良のAAAの人がいたとする。このデータは同じくAAAと評価をされた個人データと照合される。ならば、いまだAAAと評価されていなくとも、将来的にAAAとなるであろうと予測されるいま現在AAAではない個人を特定するのはそれほど難しい作業ではないはず。AAAと評価される集団のデータに法則性のようなものがあるだろうからである。単純に良いまたは優れた活動をすれば自然と評価は高まる反面、逆の場合は恐ろしいことになるだろう。データ集積能力とAIの分析能力が、これほど劇的な発展を遂げなければ不可能であったものが、人類史上はじめて可能になった。こうなってしまっては、個人が平等に個人として尊重されるのか疑問である。常識的な判断として、このような分析と評価がされているという現実を信じないと思われるかもしれない。そう思うのであればそのように思っていればいいし、考えを変えてもらいたいなんて全く思わない。自由なのだから。でも私の感覚が、いまの世の中のとてつもない不自由さ(個々の人間の分類)を直感している事実を素直に告白する。最終的に問われるのは、どんな人間であり、どんな考えをもって、どのように行動しているかであって、これが評価基準の中核を占めるであろうと思われる。
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