煩悶する「学び」
定年は死語になる。ひとつの企業で一生働くなんてことはあり得ない。副業をいくつも兼務して複数から収入を得るようになるだろう。企業のあり方も人の変化には準じて変わらざるを得ない。世界の状況と仕組みは急速に変わり、それに追いつくのが難しくなる。正確な情報と現状の本質を見分けるのもより困難になる。このような世界にあって「学ぶ」とは、適応するために「学ぶ」という意味の優先順位が高くなる。どんどん変化する環境に適応するためにその都度、ルールや仕組みを知るための「学び」。ある一定の基準から考えたり判断するのではなく、基準それ自体の変化についての知識が必要になる。肉体的精神的な制限がある中、変化に適応するために学ぶのは容易なことではない。なるべく大きく且つ俯瞰的に物事をとらえ、本質を明るみにするために抽象化して、贅肉たる具体的な知識は潔く削除してしまう。どれが枝葉末節であるかを探し切り捨てる。何を獲得するかという判断と何を破棄するかという判断は等価である。これは最低限度の「学び」であって、現状を維持させるために不可欠な「学び」である。コンピュータのソフトが更新されるのと同じことで、自己のアップデートを怠ると使えなくなるから、やむを得ず仕方なしに半ば義務的に行うのである。厄介な時代になったものだ。適応するための学びが強制されるのだから。勿論、変化なんて関係ないというのならこのような義務から解放される。寧ろそのほうが充実しており自由であるかも知れない。以上の「学び」は表層的なもののように思える。ただ現在にうまく適応するのが目的なのだから。変化の度合いに応じて「学び」の量と質が決まる。問題は、この最低限の「学び」を如何に効率的に行うかにあるのではないか。この表層的な「学び」は芸術や文学などを包摂するリベラルアーツとは無関係なので、知的な快楽は殆どないし、学問的な深淵さもない。言ってしまえばビジネス的な「学び」に過ぎない。しかし、無視すると生きる屍になりかねない、との側面があるのだが…
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