origin「ある」の発生

ジャック・デリダ「声と現象」の第六章より。「…差延のこの運動は、超越論的主観に突然到来するのではない。差延の運動が、超越論的主観を産み出すのだ。自己-触発は、すでに自分自身(autos)であるような存在者を特徴づける、経験の一様相ではない。それは、自己との差異の中で、自己への関係として同じものを、非-同一的なものとして同じものを生み出すのである」。このテキストに関係なく勝手な空想を飛翔させよう!自己が考えたものは即他者になるだろう。自己-触発は自己から生じるが、それが自己の対象にもなるのだから、主観から誕生した存在の意味が客観化を帯びることになる。もし私が完璧に私と同一で、私=私であるならば、私は一切の認識が不可能になる。差異があるからこそ違いに気付くのであり、少なくとも二つ以上の差異がなくてはならない。間違い探しのようなパズルで、両者に間違いがなく両方が一致しているのなら存在が立ち現れないように。さらに静止している世界を想像してみよう。そこに動くものがあれば、注目されるが、静止のままでは浮き出るものがないので注意することができない。違いと動きや音がないと意識がそれらを捉えるのは難しい。デリダの言葉を刺激にして連想しているだけなんだが。まず私の主観から第二の主観とも言うべき意識が導きだされて、二重の意識の世界により区別されると、初めて主観から対象に移ることが可能になる。仮にひとつの意識の発現があっても、何も認識することはできない。私は私であるのは事実であるが、私の内部に意識のズレがなければ、あるいは少なくとも二重構造にならなければ、存在や意味を知ることはない。動物には矛盾がないように見える。それは彼らが、一個の個体として完結しており、内界に人間のような不一致がない。つまり個体が完全に個体そのものと一致している。人間の場合、意識の多重性がもろもろの注意を促し、結果として多くの認識を可能にしているように思える。

0コメント

  • 1000 / 1000