「ゼロ-知性-誕生」についてのメモ
まったく何もないところから、意識が表出されたとする。ここれは果たして可能だろうか?
可能だが意味はない。意味の生じようがない。
意識が、意識そのもの意識できなければ意識の存在は不可能なはず。1は1を意識できない。同一なものは同一であることを認識できない。ここから単純に考えて、同じものでないものの存在が想定されなければならない。等しいものが二つ以上あったとしても、差異がないかぎり何の意味もない。かりに意識内にズレのようなものがあれば、その意識的な差異のために意識同士がはじめて交渉するような活動が生じる。それはいずれ認識の発現に至るだろう。しかし、このようなズレがなければ、静止かつ静寂が永久に続くだけであって、意識の発現など起こりようがない。イメージして欲しいのは、なにもない無からの誕生である。この場において意識がひとつ独立してあったとしても、その思考は思考自身を認めるわけにはいかないし、意識も意識それ自身を意識するのは不可能である。ここで注意すべきは思考も意識も多義性をもたず一義であるという点。なぜなら、あくまで始原についての考察であるから。まだ複雑になる前の話だ。もう一度いうが、完全な始原という環境について考えている。存在が一切ない状況を仮定してみる。そこから知性的なものが誕生する瞬間を調べようとしている。しかし、個人は、あまねく個人としてこの世に生を受けるのであるから、ゼロからの誕生を考えてもいいだろう。意識や、その派生である思考は、それ自身のズレから活動のエネルギーを得て、自己と自己とを反芻あるいは無限に交渉することにより、成長してゆくように思われる。当然ながら、想像を超える激しいパニック状態から思考を獲得したに違いない。言い換えると、無限に発散したとても危険な状況から逃げだすかのように生じた、閉じられた装いしたあるものが、すなわち思考と呼ばれるものである。因みに意識と思考をここでは区別していない。
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