「凹的なるもの」の逆襲
この世界に現れているものは、「凸的なるもの」であって、「凹的なるもの」ではない。…と唐突に言われてもなんのことだか分からない。でも、感覚的には理解できるのではないだろうか?「凸的なるもの」とは、陽性であり、積極的であり、能動的であり、いわば表であって光である。一方、「凹的なるもの」とは、陰性であり、消極的であり、受動的であり、いわば裏であって影である。「凹的なるもの」の不在とは、世界に表現されているものが、「凸的なるもの」であって、「凹的なるもの」は、その特質ゆえに十分表現されず、注意もされずに無視されているという意味である。なんでこのようなことを改めていうのか。それは、世の中がこの「凹的なるもの」に気づくようになったからだ。つまり、これまで隠され埋もれていたものの意義に注目する風潮が感じられる。いい兆候である。たとえばジェンダーギャップなどがその代表。歴史を顧みれば、不当な差別は薄らぎ、基本的な権利は、ゆるやかに正常な回復方向に進んでいるのがわかる。重要なのはこれが確かな潮流であるという事実である。しかし、ここにはパラドックスがある。「凹的なるもの」は注目された瞬間に即「凸的なるもの」になるからである。非存在が、いきなり存在の地位を獲得する。「凸的なるもの」はかつて「凹的なるもの」であった事実を忘れる。かつて「凹的なるもの」だった「凸的なるもの」は、はじめから「凸的なるもの」と主張するだろう。歴史はこのようにして進む。これまで不当と見做されていたものが、正当であることが判明すると、不当は不当ではなくなる。権利についても同様。これらの動きは、これまで「凹的なるもの」であったものが、なんらかのきっかけで「凸的なるもの」に変換された当然の結果である。いまだに「凹的なるもの」は知られてはいないが確実に存在している。「凸的なるもの」が「凹的なるもの」を見つけ引っ張りだすのか、「凹的なるもの」が自分から存在を主張して「凸的なるもの」に躍進するのかどうだかわからない。おそらく両者の相互作用によるのだと思う。最後に「凹的なるもの」は、抑圧されているものでもあるから、そのエネルギーには尋常ではない強い力があるだろう、とつけ加えておく。
0コメント