フッサール「幾何学の起源」

この試論で重要と思われる「地平」という概念に注目してみる。まずは抜粋から。
「客観的世界とは、元来すべての人にとっての世界、『だれもが』世界地平としてもつ世界である。この世界の客観的存在はみずからの普遍的言語をもつものとしての人間を前提している。言語はそれ自身の側から見れば機能であり、習得された能力であるが、世界、すなわちその存在と在り方に関して言語で表現できるものとしての諸客観の全領界と相互関係にある。したがって人間としての人間、仲間の共同体、世界--そのつどわれわれが語っているし、また語りうる人間の世界--と、他方からいって言語とは、不可分に絡み合っており、通常はただ潜在的、地平的であるが、いつもすでにその不可分な関係的統一において確信されているのである」

「歴史的にそれ自身において第一のものはわれわれの現在である。われわれはいつでもすでにわれわれの現在の世界について知っているし、自分がたえず未知の現実の無限に開かれた地平にとり囲まれながらこの世界のなかで生活しているということを知っている。地平の確信としてのこのような知は決して学んだ知ではないし、かつては顕在的であったものがただ背景に沈んでいるだけでもない。すなわち地平の確信は、主観的に解釈されうるためにはすでに存在していたのでなければならないし、それがすでに前提されているからこそ、われわれはまだ知らないものを知ろうとすることができるのである。あらゆる無知は未知の世界に関係しているが、この未知の世界とてもやはり世界として、すなわち現在の問いの地平、したがってまたとくに歴史的なあらゆる問いの地平としてあらかじめわれわれにとって存在している。これらの問いは、共同化された連帯によって世界のなかで活動し、また創造し世界の恒常的文化的相貌をたえず新たに変容させるものとしての人間のかかわる問いである…」
地平とは、アプリオリに確信される共通理解の場であり、個々の理解はこの地平をそのつど経由する。地平は独立している。共通理解が可能になるのは、この確信された地平があるからである。世界のなかでは、主観的な理解だけがあるようにみえるが、いったん地平に立ち戻ることによって、客観の地位が与えられる。前提として存在が確信される地平なしには何の理解も得られない。バラバラな主観が無秩序に氾濫するだけである。だから地平は理解を保証する場である。地平こそが世界に充満する主観たちに客観という身分を保証するおかげで、相互理解が正しくおこなわれる。相互理解の場としてのプラットフォームといえるかも知れない。
「」は引用。

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