創造と破壊
知識を積みあげるとか、ある特定の知識に拘泥するとか研究するとか、まして、偉人だからといって祀りあげるようなことはしない。差別である。すなわち有名人を必要以上に崇めて、無名人を必要以上に卑下するのは!知識人は上方からしか学ばず、下方と思われているものを軽視する。もっとも、上下の区別などないのだが。常識的な知性からこれらの概念が生じるが真実ではない。謬見を回避するために、抜本的な思考変革を何度も繰り返すことに重きをおこう。いま見える景色は、いま現在の思考水準によって限定的にしか見えていない事実を知っている。景色は景色そのものを変えるに及ばず、私の思考を変えるだけで十分である。思考は視線であり、視線を移動させることができれば、世界の見方も一定方向からではなく、多方面から観察することができよう。知識の蓄積には懐疑的である。というのは、その蓄積された知識が思考の柔軟性を失わせ硬直化させると思うからである。コンピュータの容量が増え重くなるのに似ている。だから博識家は注意するべきだ。知識と経験の豊富さが、却って自由な思考の妨げになる。自身の満足に関係なく、思考の創造と破壊を循環させることに最大の注意と労力を傾注させる。たとえ目的を掲げたとしても、視点が同じまま達成されるならば、進歩と言えるだろうか。隠喩としての地図における現在地と目的地は無論不可欠である。いまどこにいて、何をどのくらいしているのか。そして、どの方向に動いているのかについて知ることは大切だ。しかし、地図は視点の移動によって、地図それ自体も変化する。つまり、初めに設定した目的地点も変わる。次のように考えてみよう。ここに一枚の紙の地図があるとする。地図の端と端に現在地と目的地が記載されている。あなたは地図の両端を持って折り畳むように曲げてみる。すると、両端が近づく。同時に書かれた現在地と目的地も重なることに気付くはず。曲げた動作に相当するものが、思考の、特にその出発点の移動であり、創造と破壊が齎らしたものである。
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