未知なるものへの気遣い

意味は、それだけでは意味にならない。それを渇望する主体が能動的に捕まえにいくことによってのみ意味が生じる。なんらかの積極性なしに意味は存在すらしない。意味の存在は、それが明らかにならないまま野放しにされている。やがて意味を与えられるものが、静かに待機しているのだ。意味たちは気遣いをいつも受動的に待っているのであり、みずから動こうとはしない。いったん意味の欠片が知られると能動的な思考により注意が集まる。だが、極めて稀なことである。髪の毛の一本に全世界の思考が集中する。たかが一本にである!考えればすぐに分かるのだが、知られることのない意味あるいは真理が無限に存在しているのにも拘らず、安易に無視され存在の地位を与えられずにいる。そして、限られた恐ろしく狭い方法と認識とによって世界が、本来の豊かさからかけ離れるようにして理解されてしまう。どうしてこれらの未知なる意味の存在について無関心でいられるのだろうか。我々のほとんどは、狭隘な心でいることを忘れながら狭隘であることに甘んじている。心のどこかに窮屈さを感じながらも、それが何なのかを知らない。窮屈さの源は、視界そのものの偏狭さにある。世界に溢れる意味の豊穣さと、その存在の確実性は明白であるのに!知られていない意味が余りにも粗雑に扱われる。(まるでゴミのように!)。かつて知られた意味の蘇生すらされずに、死んだまま放置されているありさま。未知なる真理への気遣いをしないのは、知的な欠落である。知れば知るほど謙虚になるのが、正しい学び方である。というのは、知を獲得した瞬間に即、未知なる知への扉が開かれるからである。能動的に知ることなしには未知の存在にも気がつかないということでもある。

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