J・S・ミル「自由論」

ミル「自由論」の第三章から

天才をもっているという人は、たしかに、極めて少数であるし、また常に少数にとどまる傾向がある。しかし、その少数の天才を確保するために、彼らの成長しうるような土壌を残しておくことが必要である。天才は、自由の雰囲気の中においてのみ、自由に呼吸することができる。天才ある人々は、天才であるが故に、他のいかなる人々よりも更に個性的である。ーしたがって、社会がその成員たちのために、各自独特の性格を形成するの労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、天才ある人々が自分を適合させようとすれば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこうむらずにはいないのである。もしも彼らが、心臆して、これらの鋳型の一つに押しこまれることを許し、かような抑圧の下では伸びることのできない彼ら自身の素質をすべて未発達のまま放置することを許すならば、社会は、彼らの天才によって利益するところは殆んどないことになるであろう。もしも彼らが強い性格の人物であって、その羅絆を打ち破るという場合には、彼らを平凡化しえなかった社会の注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」とか、その他いろいろな厳重な警告をもって指摘されるのである。それは、あたかもナイアガラの瀑布がオランダの運河のように静かに二つの堤防の間を流れないことを非難するのと、同然である。

以上述べて来たように、私は、天才の重要性を強調するものであり、また、思想においても実行においても自由に天才を発揮することを許すことの必要を強調するものである。というわけは、私は、理論においては何びともこの主張を否定しないであろうということを充分承知してはいるが、同時にまた、実際上は、ほとんどすべての人々がこの主張に全く無関心であるということをも、よく知っているからである。世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。

独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を感知することができない一事なのである。彼らは、独創性が彼らのために何を為しうるかを理解することができない。また、どうして彼らにそのようなことができよう。もしも彼らが、独創性が彼らのために何を為すであろうかを理解できるとすれば、それはもはや独創性ではないであろう。独創性が彼らのために果たすべき第一の奉仕は、彼らの眼を開くということである。もしもこのことがひとたび充分になされるならば、彼らは、彼ら自身が独創的となる機会をもつこととなるであろう。その時の到来するまでは、彼らは、何びとかが率先して為さない限り如何なる仕事もなされたためしがないということ、また、現存する一切の善いことは独創性の成果であるということを想起して、謙遜な態度で、今後においても独創性の必要を自覚することが少なければ少ないほど、彼らはますますそれを必要としているのであることを、確信させるべきである。


以上「自由論」岩波文庫

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