階段が知らせる
知らなかった物事を理解した、あるいは分かったとは、了解された理解の場に呼び寄せられたことであって、それは同時に、これまでの世界を置き去りにしているということを意味する。あることを理解している者と理解していない者とのあいだに差異が生じている。理解していない者は、理解をしている者の世界にいまだ入っていない。しかし、理解しようという試みに成功すれば、かつて理解不能だった世界への入門が許可され、新たな世界が開かれる。理解不能だったものが理解されたのだから、認識の階段を一段昇ったことになる。だが、ここで忘れてならない事実は、かつて住んでいた世界から離れてしまい、忘却してしまうことである。あたりまえの基準が変わってしまったのだ。当然がもはや当然ではなくなる。これまで非常識だったものが新たな常識になる。あたかも苦しかった呼吸が自然にできるように。すると、どのような事態が予測されるか?コミュニケーションの断絶が起こる。一方のあたりまえが、もう一方にとってはあたりまえではないのだから。交通はチグハグになるだろう。共通に理解する領域そのものに距離ができるてしまう。知識ではなく、理解基準に差異があると相互の了解が困難になる。この断絶を回避するには、どのような経路を辿り新しい理解に至ったのかを詳細に省みる必要がある。つまり、昇ったとき使われた、いまや不要になったものとしての階段を残しておくことである。たいていの場合、階段を昇ったら、その階段にはもう要はないと言って捨てられ忘れ去られる。だが、この階段のおかげで二階に上がることができたのであった。新たな知を獲得すると、知的な世界も変わってしまう。みる視点も視野も変わる。立っている立場すら変わる。それは発展だからいいことなのだが、以前あったところの世界の忘却でもあるのだ。古い小さな家に長年住んでいたのに、急に豪華な邸宅に移住するようになった具合である。現在があたりまえと思うあまり、古い小さな家の記憶を忘れてしまう。階段に限らず、多くの道具を使ってきた過去を忘れないようにしよう。
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