神を頼む、仏を頼むということがある。自分の力では及ばないところがどこかにある。その及ばないところのものを、神と言い仏と言うのである。それを頼んだということになる。自分の力の及ばない、考えの足りない、わからないということを、どうかしてわかりたい、どうか自分の都合のいいようになりたいという願いから迷信が出ているのである。だから、このわからぬということが本になっているのであるから、これは科学ではどうしてもわからぬ。それがすなわち宗教の根拠である。
人間というものにはどうしてもわからぬところがある。知というものが出て来て、今まで無明であった、不覚であったところのものを明らかに照らし、二つに分けて見るということができたにかかわらず、その知の及ばないところがある。知だけではどうしても及ばないところがある。それがあるからここに不安というものがどうしても出て来るのである。不安というものが出て来るから、こどもの時代、青年の時代には理想の盛んな時であるから、それをどうしても片づけたいということになる。
けれどもこの理屈ということでも、どうしても役に立たぬことがある。それはどういう意味かというと、今一つであったものが、二つに分けて、わかるようになった。しかし、まだわからぬところがある。わかるということは絶対的のものでなくして、何かわからぬというものを背景に置いて、そしてそこに働くものがあるということになる。一つのものを土台にして、二つ以上のものを作っているのである。二つのものが二つということで、初めからわかれているのではなくして、その二つというものを勘定することができるのは、つまり一つというものが本になっているから、勘定ができるのである。だから二つというものの本は一つである。
この一つということは、二つに分けて、その一つ一つと数えた一つでないということに気をつけておかなければならぬ。一つということは、二つの一つでない。数学上の一つでない。働きそのものである。一つとも何とも言わないで、ただ働いて動いている。そのことを一つというのである。こういう風に考えると、一つのものから二つに出たというとき、その一つというのは、もちろん分かれないときの働きということの意味にとる。それですでに一つのものとなっているというと、それは分かれているのだから、そんな一つでは本物のものが出ない。今言う一つということは、分かれないときの一つである。二に対することも三に対することもできない一つである。
そういう一つはどうして考えられるかというと、考えられないのである。しかしその一つが捕まらぬというと、どうしても安心ということができない。知恵というものは、その方面から考えると、人間を馬鹿にするために出て来たように思われるのである。初めは知というものがほしかったから出て来たのであるが、いよいよそれが出て来る、それを役に立つ方面に向けなければならぬ。もしも、知というものが独立すると、今度は、われわれに、もし目というものが開いていなかったならば、ほしいとか、見たいという心はなかったかも知れない。
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