大きな死。その連続

他者とは、ひとつの世界である。他者が幾つも存在しているように見えるから、世界も幾つも存在する。ひとつの他者の死とは、ひとつの世界の死に等しい。他者と他者との関係は、世界と世界との関係と同じである。だから、隣人と関係をもつことは、そのまま別の世界と接することである。つまり、喋りかけるとは、世界に向かって意味を投げかけることであり、聴くとは世界の方から発せられた意味を解釈することである。いずれも大きなことである。簡単にやっているが、世界を相手にしているという点では大きな仕事である。はじめ世界との関係は希薄であるが、次第に密になるのが普通だ。密になったからといって完全な理解に至ることはない。それは人間がどこまでも底無しであるから。だから密になるとは、あたかも密になったかのように錯覚するだけに過ぎず、知ったことにはならない。互いの交渉の度合いにより理解は接近するが、どこまでいっても接近を超えない。つまり完全な一致はない。ひとりの人間を知るということは、不可能であって、世界が完璧に知られることがないのと同様である。世界に連続性を与えているものは、たくさんある他者の意識である。本来、他者の死とは永遠の世界の死である。「あの人が死んだ」というのは、あの人の世界が消滅しただけではなく、あの人にとって唯一無二の世界が消えたことを意味する。あの人の視線から見るならば、何もかもが死んでしまっている。無だ。私の想像力が、何かあるように思わせているのだが、まったくお節介な想像である。私からあの人の死を眺めると、あの人だけが亡くなったようにしか見えない。そうではなくひとつの世界が瓦解したのに、そのことの大きさに気付かずにいるのだ。人が死ぬとき、ひとつの大きな世界を背負いながら死ぬ。このように歴史は何度も繰り返し死んでいる。個人の歴史ではない!世界の歴史が死ぬのだ。

0コメント

  • 1000 / 1000