「困難の克服」から一望へ
解るものは、自己との距離がそれほど離れていない。ここで解るとはそれほどの労力を使わなくとも、という意味である。自己のすぐ近くにあるから捉えるのは容易である。手を伸ばすだけでいい。逆の場合、解らないものはどうかといえば、自己との距離が離れているだろう。手を伸ばしても捕まらない。仮に解らなかったものが、克服され解るものになったとき、離れていた距離が縮まり消滅したことになる。同時に克服に要した労力の痕跡は視野の拡大として残る。このとき明らかに思考の構造が変わる。手を伸ばす代わりに、思考の跳躍に寄ったからである。次の認識に向かうとき、この新しい構造から出発することになるだろう。つまり、階段を一段昇った場から新しい視点を得る。実をいえば、最初は何も解らないはずなのだ。恐る恐る共通の理解を周囲と確認し合いながら、了解が浮きでる感じだ。自己の認識の度合いを他者によって知らされることもある。他者と意味の共有ができるから、それは理解されたものと確信することができる。だが、両者が同時に間違って誤謬を共有しているだけかも知れない。意味の共有ができたからといって、必ずしも真実を理解した証拠にはならない。あたかも一般的な話題や噂をほんとうであると信じて、真偽を忘れるのと同じである。一見して、とても解りそうにないと思える対象であっても、諦めずに食らいついていると、次第に展望が開けてくる。理解される対象と自己との距離が遠かったものが、困難な対象に向けて地道に労力を費やすうちにだんだんと、その距離が縮まりゼロになったとき、困難な対象はもはや困難な対象としてではなく、自己の一部分として血肉化される。重要なことは、これらの過程で、はじめは困難であった対象と、自己との距離が途方もないものだと感じていたことだ。知的労力によって、他者の他者性をなくし、自己と同化させる。なぜこのような意欲が働くかというと、私が変わらなければ、他者の理解も覚束ないから。他者は困難なものであり、難しいものであるように見えるが、その了解の過程で、私自身が変わらなければ不可能なものであることを知っている。私が動かずして解るなどあり得ない。少なくとも、こちらから困難の方に向かって歩み寄る必要がある。それは、山に登り視界が開けることで、遠くまで見渡せるのに似ている。
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