大地を掘削する「凹主義」
比喩的な意味で、なぜ山に登ろうとするのか?何が言いたいか。山は目玉に見えるものである。または、みずから山を創造してから登る。自己を明らかにするために、高みを目指すのがあたりまえになっている。しかし、私は違う。もう一つの方法を試みる。地底に向かって掘削することだ。地上に停滞するのは、すなわち透明になることであり、影の薄いことであり、同時にあまり意味の無い存在の仕方である。これが大衆の生活なのだ。だが、恐れを感じる時代の敏感者は、上に向かって登ろうと躍起になる。こうゆう人は見えるものに重点をおく。価値を築こうと厖大に積み重ねるが、それが見えるものでないと不安になる。探索するよりは、掻き集める。効果を確認しないではいられない。何かを具体的にやろうとする。視界に去来する繊細な「蝶」が舞っていたとしても、何気ないものとして道草を食うことをしない。寄り道をしないで、一気呵成に猛進する。「あること。見えること」に執拗に執着する。これを凸主義と呼ぼう。これに反して、凹主義という概念を導入する。上に登って自己を目立たせるのではなくて、地表を下に向かって掘り進めることによって自己を浮き立たせるのだ。飛ぶのではなく、モグラのように掘削する。凸を主張するのではなく、凹を主張することだって可能であるに違いない。尤も中途半端に掘るのではない。全身全霊をささげて掘るのである。…と、ここまで書いてきて趣旨を変更するのも気がひけるが、凹主義と凸主義の併用の方がいいのではないかと考えを改めよう(私は急発進急停車をする暴走族なのだ)。右手で空中を舞い、左手で地下深く掘る。このとき両手が別々に存在しているものとしてしまおう。バッハを弾くように左右の手を完全に独立させ切り離してしまおう。すなわち存在とは、上に向かっても、下に向かっても開けるはずだ、と確信する。掘削するとは、引っ込むことではない。深層に新しいものを発見する、積極的な行為のことである。くり返すが、凸主義と凹主義の合成に主眼を置くのが、当面かつ未成熟、かつ暫定的な結論である。いまのところ。ここに点滅するカーソルを!
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