音楽。あるいは不都合な鋭さ
よく分からずに執着するものがある。例えば、音楽がそれだ。好きなのは好きなのだが、どこか不可思議ともいえる執拗さなのである。思うのだが、もしかすると、来るべき将来に備えたものであるかも知れない。心に大きな腫瘍ができたときに発令される危機管理の要素があるのではないか。楽しむための音楽がある一方で、悲しんでいる心を回復させ修復しようとする音楽がある。絶望に処方する音楽というものがある。心が本来の行き場を見失い混乱しながら逡巡する。そして、動揺してよろめく。救いを求めて至るところ探し回る。探していると、音楽の悲痛な叫びが耳を通して聴こえてくる。真摯な魂が旋律となって、歪んだ心に外科手術を施す。奏でられる音楽と、聴く魂の親密な関係が化学反応をおこす。この時、心が真の意味で音楽を捉えたのだ。この瞬間のために、耳の繊細さを併せもつ鋭敏さが、あらかじめ用意してあったかの如くに感じられる。音楽を深く聴くことができるよう、自分でも意識しない間に、暴力的に聴くことに執着していたかの印象を受けるのだ。時間を投入して熱意をもち真剣に耳を使うのが、習慣となっていたのは、いつか危機的な状況下に置かれたとき「どうしようもなくなった心」「途方に暮れた心」を充填して新しい方向性のようなものを配置するためであったのかも知れない。「探究するようにして音楽を聴く!」これは安易な技ではない。音の氾濫に絶えず晒されてエネルギーを消耗する。無神経に選択された音楽らしい音楽をいつも聴く羽目になる。耳と同じことが、眼にも起こる。眼でみるというよりは、頭でみることが多い。過剰に眼に飛び込んでくるので、実際は眼を使わずに意識で見ている感覚になる。場面の全貌を、耳のように頭の中に配置する。これも非常に困難なことだ。聴力や視力の問題ではない。なぜなら、悪いのだから。そうではなく、ある種の異常な鋭さが、かえって私の存在を難しくしている。しかし、好きで鋭敏であるのではない。むしろ激しすぎる鋭さを隠蔽するのに必死である。カフカに同情する言葉がある。「紙を引っ掻くように書く!」と。この鋭敏さの欲求を満たしてあげなくてはならない。
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