独白ー知識バブル!
あまりに世の中に知識が多すぎるので、どうすればいいのかわからない。そもそもなぜこうも知識が溢れているのか。と、問うということは、既に知識に価値があることを前提にしている。知識を知識と思っているから、その膨大さに辟易している。もし知識の価値を無視することができるのなら、という意味は、知識になんの意味もない空気のようなものだとすれば、知識はもはや存在ではないということになるから。無視するという行為は無視されるものの存在をあらかじめ知っていなくてはならない。だが、わたしたちは知識が溢れている環境に身をおき、実際に毎日のように接している。しかも、知識の価値を知ってしまった。ところで、言うまでもなく人生は有限である。この世に誕生してのち、ゼロから知識を吸収する。平均的な知識を獲得したあとも、知識は加速度を増して増え続ける。過ぎ去った歴史の中で生まれた知識を参照するだけで、手いっぱいなのに、さらに現在進行形で爆発的に膨張する知識にも配慮しなければならない。あれもこれも知るなんて到底できっこないのに、知識の獲得を怠ると、どんどん遅れてゆくような不安に陥る。わたしたちは有限の生命をもっているから、その範囲内で安全かつ充足しながら完結すればいいのであって、知識に振り回されるのでは生きていることにはならない。世界があまりにも急激に知識と情報とデータを生産するが、もっとも危険なのは、翻弄され自己を見失うことである。細かい知識やすぐに更新されるような知識に逐一つきあっていれば、時間がいくらあっても足りない。誤解される覚悟をよしとすれば、過剰な知識で頭をいっぱいにする必要はない。実は、このように書いているわたし自身が翻弄されて困っているから、どう対処したらいいのか考えている。時間配分に苦慮する。というのは、古くなった優れた価値のある文化遺産が沢山あり、こちらのほうが優先されるべきとの、異邦人的な考えをもっているからである。無尽蔵に生産される現代ものよりは、ワインと同じく、深みが違うのを感じるので、どうしても過去に生きる割合が多くなってしまう。深度が深まれば深まるほど、得られるものは大きく重厚なものになる。率直にいって、人間性を豊かにする要素は古いものほどいい。時間もかかるので、生きる骨董品になりはしないかと恐れている。温故知新という言葉は知っているが、実践するためには、どうしても知恵を使わなくては不可能だ、と結論づけた。最先端の知識に現実は左右されるからである。だから、能力はさておき、知恵というものに関心が集中している。知恵があるとは思っていないが、知恵の必要性を強烈に感じている。なぜなら、知恵は知識よりも上位にある概念であり、知識のように過剰になったりしないから。思うに、知識の壁を越えるための苦渋の決断こそ知恵の獲得ではないか。それにしても、私にはこれっぽっちの知恵もない!知恵の獲得の必要性を知っているだけに過ぎない。ちなみに宗教と知恵には親和性があるだろうが、如何なる事情があろうとも無宗教を貫くのが、知恵以前のわたしの知恵である。
0コメント