搾取についての私感

搾取の構造について、ちょっと考えてみよう。マルクスは、あらゆるものを商品の現れとしている。もちろん労働力も商品である。我々の多くは、労働力の一部を会社などに売っている。物としての商品は労働力の結晶とみることもできるし、その商品が貨幣に転換されたときは、貨幣も労働力の化身とみることもできる。ところで、搾取はどうして起こるのだろうか。ひとつに労働力が可変資本であるということ。また、資本主義においては、余剰価値の創出が必然的に行われること。機械技術の進歩に沿って労働が行われる、ということが主な原因であると思う。(思うというのはマルクスをあまり理解しているとはいえないため)。必要労働と言われるものは、必ずしも労働の全部と一致しない。余剰価値を創出するための労働は、知らされずに行われるが、それは必要労働を超えた、謂わば余分に働いたぶんの労働である。余剰価値が、なぜ生まれるのかといえば、生産技術が向上しても、人間の労働時間は変わらないからだろう。つまり、生産能力が上がるならば、労働時間も減らすのが当然なのに、実際は労働時間が減らされることはない。毎日、一定時間は働くべきものと考えるのが常識的な感覚である。憲法にも勤労の義務とある。しかし、労働にも適正な時間というものがあるはずで、労働価値に見合った時間だけ働くのが本来あるべき姿である。余剰価値を創出するための労働時間は自分のための時間ではなく、他人(資本家など)のための労働時間なのだから、不必要な時間であることは明白だ。この不必要な時間に消費される労働力が搾取の対象となる。労働力は賃金に変換されるべきものなので、労働力が搾取されるとは、賃金が搾取されるのと同等である。また労働力が、可変資本であって不変資本ではないということは、労働時間が都合のいいように見えないカタチで自由に動かすことができることを意味する。必要労働時間を超えても働きなさいということになる。盲点になっているのは、知らないあいだに必要以上の労働をしているのにも拘らず、その事実に気づく術がないことである。「必要労働を超えたから労働を休止します」といえない理由は、どこまでが必要労働なのか、誰も判断できないからである。マルクスを読んで感じることは、労働力という商品の特殊性である。



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