遡って知る「未来の知識」

未来を知ることは可能だろうか。一見すると不可能なように思われる。しかし、もしかすると可能なのではないかと考えるようになった。常識から逸脱する話であるけれども真剣にそう思う。というのは、過去に何気なくノートに書いた記述が、だいぶ後になってから、はっきりと理解を伴ない意識することが度々あったからである。つまり、書いた時点では明瞭に意識できなかったのだ。この個人的な体験から導きだされた仮説は次のとおり。未来に関係する知識は、実際この眼で見ているにもかかわらず、どこか壁のようなものに邪魔されて盲目になっているのではないかというもの。現在に未来の知識が混入しているのに気付くことができないでいる。注目すべきは意識のタイムラグである。ノートの例を再度もちだすならば、書いたのは本人である私だ。ただ、書いている状態というのは、完全に明晰な頭脳であったとは言い難い。むしろペンに任せ、紙に書かれる文字を眺めるという奇妙な感覚があった。表現が適切かどうか分からないが、意識と無意識を同時に駆使しながら、時間の経過に従い意識の比重が薄れて、無意識の比重が大きくなるようだ。ここで、無意識なんてものは、私のものであろうがなかろうが知ったものではない。はっきりと言ってしまえば他人である。だが、この他人である無意識が過去に書いた記述に、現在の私が驚くのである。未来を先取りしているから驚くのだ。ここでも差異がみてとれる。タイムラグが生じている。時間が経過してから驚くのは、過去に書いた記述と、現在の私とに差異があるからである。仮にまったく同じで差異がゼロならば、驚くということはあり得ない話だから。ところで、未来の知識について考察しているのであった。無意識についてはわからないけれども、二重の自己の存在は明らかである。ランボーは「自己とは他者である」と言った。ひとりの人間のなかに別の存在があること!そして私は、この別の存在から未来の知識を受け取るのである。私のなかの他者が無意識を通じて未来を告げる。客観性に欠けるのではないかと批判されるかも知れない。だが、現実と照らし合わせても、未来を先取りしているという確かな印象があるのもほんとうである。まだまだ種の段階であるから、しばしの熟成を待ってのち、これらのアイデアを秩序立てることにしよう。

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