渋滞
渋滞している。前に進まない。同じところを何度も回転する。どこに躓いているのか?思考不可能、あるいは他者との関係にである。しかし、なぜこの場にとどまっているのか、との疑念もある。留まっている状態そのものが、何かを告げ知らすこともあるだろう。もしこれが壁であるとするならば、壁の作者は自己である。壁に躓くとは、自己に躓くのと同義である。前に進みたいと渇望するのは、壁に飽き飽きしているからだ。反復することほど、不愉快なことはない。(反芻する牛ではない!)。思考の渋滞は、この反復を強要しているふうにも解釈できる。思考不可能と、同じことだが思考不可能なものとしての他者についての渋滞。思考不可能なものを気にかけているからこそ、この非存在が強調される。非存在は思考の対象にはならず、非対象なものであるから、「初めからないもの」「見えないもの」「不可能性」「未知なるもの」に注意が向かっていることになる。これから新たに存在を獲得したり、名前が付与されたりするであろう、いまは非存在になって隠蔽されている未来的なものに注目していながら、そのような思考から脱けだせずにいる。思考不可能性に取り憑かれ、引っかかり、そして宙吊りにされている。現時点で「名」があるものではなく、新規に「名が与えられる」ものに関心がある。知識になる前の未成熟な知識は、漠然としており、地位もないから認識すら曖昧であるどころか、指摘されても見えないか、若しくは拒否される。未知が既知になる過程では、拒絶反応は日常茶飯事である。明らかに思考傾向は未来的であるが、理由は知らない。前のめりの姿勢は、現在を蔑ろにしているように見えなくもない。自己弁護的に言えば、発見的な思考に向かっている。未来の価値に興味が集中しているのだから。ここまでのエクリチュールの実験により(私は予定調和的な書き方をしない!)渋滞の全貌が、うっすらと霞が懸かったようにではあるが、浮きでてくるのが分かる。モネの日の出のように!
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