フォードのボタン

「自分以外の人間に頼むことができて、しかも、彼らの方がうまくやってくれるとしたら、自分でやる必要はない」。ヘンリー・フォードが言ったとされる言葉である。好きな逸話がある。真偽のほどは定かではない。ものを知らないと揶揄されたフォードは、私の机には幾つものボタンがあると説明する。わからないことがあれば、そのボタンを押せば、いつでも教えてくれるから、あらかじめ知っている必要はない、と応えて相手をやりこめたという話。我々は誰しもひとりで生きているのではない。できないことは誰かに補ってもらう。だからといって、できないことばかりでは助けてくれない。互いに得意なことを交換するには、自分にも得意な分野がなければならない。相手は自分の苦手なことに精通しているとする。情報を交換するためには、相手側の知の領域についての多少の理解がいる。何をいっているのだかまったく分からない、というのでは相手側から何も得られない。これは大きな損失である。何がどのくらい分からないのか。どこまで知っているのか。だれに訊けばいいのか。どのように訊けば、不足が補えるのか。これに対して、ブラックボックス的な考え方(仮名)も応用できる。入力と出力に限って知ることができればよしとする。「入力→ブラックボックス→出力」と考えたとき、ブラックボックスの部分の理解を放棄してしまうのだ。つまり、だれに、どう言えば、何が分かるのかのみに範囲を縮めて、その過程を無視するのである。利用可能であるならば、知らなくても問題ない知識については、無知でも可とする。AIを想定した対策でもある。知識よりも知恵に重点をおくなら知ること以上に、実用的かつ利用可能であることのほうに価値があるだろう。専門家の助言については、こちらの入力と彼らの出力に注意を向けるといった具合だ。専門家が、どのような過程を経て出力したかまで知るに及ばない。このように対応すべき理由は、専門家はひとりではなく、たくさんいるからである。多数の専門家の助言を活用するためには、不要な知識を明確にすることのほうが、知ることよりも寧ろ大切になってくるのではないか。自動車の構造は知らなくても運転できればいいのだし、パソコンの中身を知らなくても、操作できればいいのだから。

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