無に注意する

見えているものは、わかっているものだ。地位が与えられているものだ。光が当たっている場所だ。輝き、だれもが振り向くものだ。高騰している価値だ。安定しているものだ。それゆえ安心できるものだ。それゆえ安全なものだ。それゆえ大きく変わることを期待するのは難しい。見ているのではなく、見えているのだ。向こうの方から主張するので、黙っていても聞こえてくる声だ。こちらから関与する必要はない。それは力があるから存在を強調する。それは、見ようと努めなくても見ることができる。存在の価値をゼロから確かめる手間はいらない。もう登りつめてしまった古びた栄誉だ。世間が知るようになったおかげで、確認しなくても認められてしまっている残骸だ。それはもう既に遅い。老齢にして固まってしまった立派な墓。上空にある廃墟だ。天井に頭を打ち続けているものだ。それは腐りかけている金貨であり黄金だ。これから光が消えようとする瞬間の黄金だ。憧れの的だ。しかし、サーカスの空中ブランコのように、いまにも落ちそうだ。われわれは、いままさに落下しようとするものに憧れている。よく見えるし、優れていて立派だ。だれも否定しない。希望の象徴なのだから。でも、それは朽ちている。内側から朽ちている。人は、見えるものしか見ない。見えないものが、これから見えてくるかもしれないなどと想像することはない。いたとしても稀だ。でも見えない黒子が、これからの主役だ。これからのものは、見えていない。そして、われわれは、これから生きようとしている者だ。われわれの友とは、これからの友である。これからの友と呼ばれるものは、いま見えていない。見えていないとは、注意されず、配慮もされないまま放置されているということだ。いま消えているが、いずれ明らかになるものを探すのは困難だ。常識を疑えば、常識そのものから反撃を受ける。常識とは、だれもが見えるものの総称である。見えないものに疑問符がつくのは当然である。それは首を傾げられている存在なのだ。確からしさだけでは説得できない。だが「これからのもの」に内在されるものは、見えないか、見えつつあるか、見えても配慮されず、意識されてもいないものである。見えないものの中に、見えるものを見いだすのは至難の技である。なぜなら、無に注意するという、一般には理解しがたい行動が要求されるからである。無は認知されていないから、無への配慮は、仕事として認知されることもない。新しいことを始めるこれからの人間は必ず「あいつ何やってんだ」と嘲笑される運命にある。笑いものにされても、曲げないで貫き通さなければならない。誤解されても不動産みたいに動かない!知っている者は知っている、歴史の法則がここにある。


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