武器すら奪われる

考える時間を剥奪されることが、最も恐ろしい。相手は、考える暇を与えないように気を使っている。考えるならば、疑問をもち現状の分析を始めるからである。相手側は、真実と不条理を知られたくないがために、必死になって熟考する隙をつくらない工夫をする。何となく不満であり、漠然とした変な感じのままでいることを欲する。とにかく現実の労働環境の正当な分析などされたら困るのだ。なんとか誤魔化してお茶を濁す風にしておきたい。疑問をもつためには、いったんすべてを休止し、冷静になって深く考える時間が必要だ。疑問をもつことと考えることは等価と言ってもいい。ここで重要なことは、思考行為がそれほど容易な技ではないどころか、苦痛を伴う重労働であるということ。頭の中でやることは、外からは見えない。記憶が優れていると言われている人も、内実は、思考能力の高さが隠蔽され口からでる言葉の印象だけで、あたかも記憶が優れているように見える場合が多々ある。誰も思考能力の水準を簡単に測れない。「思考能力がいいね」という言葉はあまり聞かれないのは、思考というものがどうゆうものなのかを、推測できないからである。同時に思考の価値にも関心を示さない。思考は多種多様なのだが、外側からそれが知られることは滅多にない。翻って話をもとに戻そう。置かれた立場が如何なるものか。それが不公平なのか公平なのかを判断するには、少なくとも能動的に考えないと分からない。考えるのが面倒だから考えないという立場に甘んじていると、大きな損失をする。悩むことは考えることと全く別物であって、前者は迷って回転するだけだが、後者は方向性をもち解決策を練る。もっとも閃くまでは迷う感覚があるが、悩むこととは違う。悩むとは、消極的な性質なものであって、思考の前段階であるが、まだ思考とは呼べない。直感的に主張しても意味がない。膨大な資料を読み調べた知識を参考にして、多角的かつ大局的に再度独力で(偏見を排除して)考えてみる。他人の考えはあくまでも他人の考えである。国民の総意はあくまでも国民の総意である。一般常識は、あくまでも一般常識である。それらは、自己が独力で考えだしたものとは異なるものだ。思考すら他人の思考ならば、考える意味が全然ない。読んで納得するだけでは意味がない。知識は道具に過ぎない。どんなに知識があったとしても、道具が増えるだけである。思考は完全に独立しているべきものだ。独立していない思考を思考と見做すのは誤りである。さて、この独立した思考をさせないように、この世界は巧妙に仕組まれているように思えてならない。これが言いたかったことである。時間を与えないのはいい例である。組織の統一を重んじると、必然的にそのようになるのだろう。また何かをやっている気分にさせる(主に仕事)、という罠があるから注意がいる。ところで、冒頭の相手とはだれでしょうか?

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