2023.02.08 14:16発見についての一般理論発見について私たちは誤った観念を抱いていないだろうか。発見されるというとき、発見されるものが単独にひょいと頭に浮かぶのが一般に流布している発見のイメージであるようだ。この共通認識は間違っているのではないか。発見される対象は決して閃きのみでなされるものではない。ではどのように発見されるのかというならば、発見されるものの周囲にあるものが明らかになることによって、あたかも浮き上がるように、もしくは押しだ...
2023.02.04 13:16動くもの。あるいは未知の知識理解とは何か?またどうしてこのような問いを発するのかについて興味がある。理解という言葉に堅苦しい印象をもたれるならば、納得するとか腑に落ちると言い換えてもいい。理解するとはどのようなことなのかという問いは、あたりまえ過ぎて問うに値しないとか、問うことで何か意味があるのかと言われるかもしれない。しかし当然すぎるから問うに値しないという考えはあまり当てにならない。地動説以前は天動説が常識だったように常...
2022.10.14 13:20賢者の石「自然価格は、諸商品の価格がたえず引きつけられる中心価格である。種々の出来事が、時としては、市場価格を自然価格のかなり上にとどまらせ、また時としては、幾らか下にさえ押し下げるにかもしれない。しかし、市場価格が休息と滞留とのこの中心に落ちつくことを妨げる障害がどうあろとも、市場価格はつねにこの中心に向かう傾向をもっている。」アダム•スミス
2022.09.21 11:54宇宙遊泳自分自身がまったく分からない。これが唯一の真理である。知ろうとすればするほど分からなくなる。もし、かりに自分自身についての知識と呼ぶべきものがあるとしてみても、その知識はいつまでもゼロである。自分自身を知ろうとする欲望があるからこそ知ろうするのに、知ろうとすればするほどその知識(自分という人間の本質)は逃げ去っていくように感じられる。では、反対に知ろうと努めないとするならば、分かるのであろうか。こ...
2022.09.03 15:24なぜ間違うのか判断についての誤解があり、なぜ間違うのかということに興味があるので考えたい。人は理解していない事柄について安易に判断してしまう。理解していない事柄とは、知らない領域のことである。間違うとは端的に言って、自分がよく知らない領域について、判断できるものと錯覚してしまうことからその判断を誤るのではないか。そもそも判断してはいけない事柄について判断してしまうという人間的な本性により判断を誤る。専門家とて専...
2022.08.27 15:06証明「未知なる対象は存在しない」対象とは何であろうか。主体からみた対象であるはずだ。主体が対象をみるとはどうゆうことであるか。対象というとき必ずこれをみている主体があるが、ここで主体には、しばし退場してもらおう。対象になるのは対象になれるものに限られる。対象として固定できるものが対象になり得る。なにを言おうとしているのか。対象に向かって的を射っているのだ。対象はあたかも塊としてまとまっていることがあらかじめ了解されている。捉えど...
2022.08.20 14:43価値の評価新しい着眼。それは価値の創造について一般的な誤解があるのではないかという推測。新規の価値の創造に躍起になる必要はないのではないか。理由はもうすでに価値はありふれていて、ただ発見されずに放置されているものと思うからだ。どうして放置されているのかといえば、独創的なものは価値の評価が難しいからである。なぜ難しいのかというと、伝統的な考えや常識からの視線で見るからである。すなわち世間には埋もれている価値が...
2022.08.14 15:07ドッペルゲンガー人間の本質には、二重性があることについての考察。ここで意識と無意識の二重性のことではないことに注意したい。アプリオリに、少なくとも二つのものがなければならない。二つあることが、前提されているのだ。例を挙げよう。意識があるというとき、意識される対象と、それをまた意識する主体とがある。「意識がある」という意味は「意識がある」と認める意識が、同時にあるということだ。単独の意識などなく、あるのは二重の意識...
2022.07.31 15:05吾輩はカラダである。言葉が身体であることについて。一般的に言葉と身体はまったく別のものとされている。しかし、ここで新しい見方を提示してみよう。それは言葉と身体に境界はないというものである。境界はないどころか、言葉は手のように身体に密着している。言葉は身体に完全に溶け込んでいる。私たちは、言葉を聞いたり読んだりすることによって変化する。まず眼や耳から言葉を受け入れ、脳を経由して心と身体が影響を受ける。理解された言葉は、...
2022.07.26 15:22善悪になる以前善悪という事実はないことについての考察。ないというのは善悪は事実の解釈であるから、事実自体にそもそも善悪はないであろう。おかしな話のように聞こえる。事実はあると認めるとしても、事実の裸そのものについて善や悪はない。事実の裸とは、まだ意味や解釈の付与されていない純粋な事実のことである。どうしてこのような道筋に至るのかと言うと、まず、もっとも初めの段階においての事実と、それに与えられる意味を切り離して...